父母と姉と私、そして祖母の5人暮らしな家庭。
父も母も自宅で店を営んでいた為忙しく、
姉は小学校に通い、遊び相手といえば昼間預けられていた
ベビーシッターさんの家に居る、同じ環境の子供くらい。
そんな環境で育った1〜3歳時の私。
自宅では、いつも祖母にベッタリだった。
太めで少し重い(と当時は思っていた)体で自炊を行い、
新聞を隅々まで読むのを日課とし、
好きな相撲を新聞の取り組み表に
鉛筆で今の取り組み結果を記しながら観戦する。
足腰が弱らないよう、自宅の周りを毎朝散歩し、
ゴキブリなぞは、手の平で叩き潰す。
そんな“気丈な明治女”な祖母。
「仏壇の供え物を食べたい」とせがむ私に、
「ちゃんと拝んで、祖父ちゃんの許しを貰ってからなら良いヨ」と伝え、
“卵焼き”などを危なっかしい手つきで作る私を
温かい目で見守りつつ、たまに助け舟を出してくれた。
時には厳しく怒られた事もあったけど、
いつも最後には私の味方になってくれる。
オモチャなど買って貰った覚えは余りないが、
大好きな本は、かなり多く買い与えて貰った。
今思うに、生まれた時には祖父が既に他界していた私に対し、
祖父の分まで、愛情を注いでくれたのだろう。
思い切り“お祖母ちゃんっ子”な私。
もちろん、祖母が大好きだ。
私が高校3年の秋、急に彼女がボケた…
それまで、そんな予兆すら無かった祖母が。
鴨居に掛けている着物に向かい伯母(次女)の名で話し掛け、
私に対して叔父(次男)の名を呼び、
父(長男)を祖父(夫)と思い込む祖母。
突然の事に慌てる家庭。
居もしない“蟲”が這いずり回っていると恐がる祖母。
「居ないから大丈夫」
とも言えず、必死の演技で“蟲”を取るフリをする私。
ゴミ箱に捨てる動作をして、
「ほら、もう全部捨てたから」
としか出来なかった…
いつもの祖母は、そこには居なかった…
とても悲しく、そして怖かった…
目頭が熱くなったが、泣くのは我慢した…
3日目の早朝、倒れた祖母。
慌てて救急車を呼び、近所の公営病院へと入院。
学校に行っても祖母の事ばかり気になり、
下校後は一目散に祖母のもとへと出向いた。
容態は落ち着いているものの、やはり人の判断は付かないようで。
それでも、元気そうに見えたその姿に安堵した。
入院から1週間くらい経ったある晩、安定していた状態が一変した。
慌てて病室に駆け込んだら、担当医師によってマッサージが行なわれていた。
近所で来れた親族皆が集まり、蘇生処理を受ける祖母を見守っていた。
当然、意識の無い祖母だが、その胸から伸びるケーブルの先の
心電図は、弱いながらも波打って見えた。
(まだ、死んでいるワケじゃ無い!まだ、大丈夫ッ!!)
強く、そう感じた。
マッサージだけでは間に合わないと判断した医師。
長い針の注射器で心臓に直接薬を射ち、更にマッサージを続ける。
祖母が痛そうで、目を背けたく、そして医師を止めたかった。
でも、直ぐに良くなる事を信じ、潤む瞳で直視した。
依然、心電図は弱い波を映し続けている…
やがて、医師が蘇生機(電気ショック)の準備を始めた。
準備段階だけでも、正視するのが辛かったが、
実際に通電が行なわれ、激しく胸を反らす祖母の姿がとても痛々しかった。
ホントにやめて貰いたかったが、コレで祖母が助かるならとも思った。
今にも泣き出しそうな顔が見えたのだろう、
医師が父だけを残し、他の親族は皆、室外の廊下に待機させられた。
時折、室内で鈍く鳴る“通電の音”だけが耳に届いた…
とても長い時間、待たされた感じがした…
やがて、医師と父から中に入るよう促され、
再度、病室へと移る私達。
その後、暫く心臓マッサージを繰り返した医師だったが、
「今は微弱に(心臓が)動いていますけど、
これは、今マッサージをしていたからです…
これ以上続けても、普段の力強い鼓動に戻ることはありません…」
嘘だと言いたかった。
心電図では、確かに弱々しいが、しっかりと波打っているじゃないかと。
「望まれるなら、もう少し延命処置を致しますが…」
の医師の問いに、父が静かに、
「いえ…、ありがとうございました…」
と答えた。
何が何なのか、よく把握できず呆然とするしかない私だったが、
医師の次の言葉で現実に引き戻された。
「○時○○分…、ご臨終です…」
とたん、涙が溢れた。
この言葉だけは、聞きたくなかった。
いや、耳に入ってきたその言葉を信じたくなかった。
合掌をする医師と看護婦の姿も、まやかしと思いたかった。
(まだ、こんなに血色良いのに!?
まだ、こんなに温かいのに!?
まだ、心臓は動いているんだろ!?
まだ、血は流れているんだろ!?)
次から次に涙が出た。
声も上げた。
どの位、泣き続けたか分からない程泣いた。
親族皆で…
日が明け、通夜、葬儀の間は忙しくて泣く暇など無かったが、
荼毘に伏す際、叔父が火を点けるスイッチを押した時の一言。
「お母さん、さようなら…」
また、涙した…
あれから、幾年月が経ち、
今では、仏壇の祖母に笑って現状報告が出来る。
もっと言うと、常日頃、どこかで
祖母が見守ってくれていると信じて疑っていない。
だから、私は祖母に胸を張って、
恥ずかしくなく現状報告が出来るように、
そして、見守って貰えるように努めていきたい。
「祖母ちゃん、俺、頑張るから、シッカリ見ていてくれヨ!」1991年11月2日に大好きだった祖母が他界して早幾年。
命日が近い今日この頃、祖母を思い出して当時の様子を書いてみました。
『創造』では無いですが、こんな手記もあっても良いかな?
ちなみに、彼女を急に襲った『ボケ』。
普段常用していた強めの薬によって、内臓がやられての幻覚・幻聴だったそうです。
ナンやカンやで享年93歳。
痛みや苦しみを(実質)伴わない大往生であったと、今では思うことにしています。
02-Oct-2002